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礼拝メッセージ/Sermon

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4月26日 照内幸代師
「主を尋ね求め、主に従う」
サムエルⅠ 24章

サウルがダビデの命を狙ってダビデを探しに来たとき、なんとはからずもサウルはダビデと同じ洞穴に入ってしまったのです。これをダビデの部下は絶対の好機と捉えました。今与えられている環境もまた、神様のお許しのもとにあるという信仰を私達は持っています。ダビデやその部下も同じでした。これこそまさにサウル王を打ち取ることのできる絶好のチャンスであるわけです。神様もそれをお許しくださったに違いないと部下たちは確信したのです。

 

ダビデも部下たちの進言を聞いて、そうかもしれないと思ったのでしょうか。ダビデは立ち上がって、何かを確かめるようにサウルの上着のすそをこっそり切り取りました。本当に部下たちの言う通り、神様がそのような導きをしてくださっているのかと確かめる行為でした。しかしその瞬間、ダビデはこのことで心を痛めたとあります。

 

「心を痛めた」と訳されている言葉は、直訳すると「ダビデの心が彼を撃った」という意味になります。ダビデの良心が、これはすべきではないことだとダビデの心を責めたことが分かります。ダビデが確信したのは、「これはサウルを殺せるチャンスだ」ということとは真逆のことでした。

 

「神様が油を注がれた王様サウルは今も生きて守られている。彼は王様として今生きている」。これがダビデが確信したことだったのです。神様が生かしておられる神様がお選びになった王様を、人間である自分が手に掛けることはできない。神様が然るべき時が来たときに、然るべき方法でサウルを裁かれるのであって、それは自分がすべきことではないとダビデは感じたのです。そこでダビデはサウルを殺そうとする部下も説得して、サウルを手に掛けるということをしませんでした。

 

まったく同じ状況でも、神様に対して部下とダビデは真逆の結論に至っています。私達が今与えられている環境・状況は神様によって赦されているものである。それは確かなことですが、それをどう解釈するかということは、気を付けないと真逆の結末になりかねないということがここから分かります。

 

結果としてダビデが正しかったということが後になって分かります。サウルが洞穴から出たとき、ダビデは敬意と愛をもってサウルに話し掛けました。このダビデの語りと態度を見て、サウル王は胸を撃たれました。「お前は私より正しい」。このサウルの王の言葉が何よりも、ダビデの行動が正しかったことを証明しています。先に神様に対して二度罪を犯したとき、預言者サムエルにそれを指摘されても、サウル王は悔い改めることができませんでした。開き直ったり、人のせいにしたりしました。それによって神様はサウルの王位を離れられたのです。

 

しかしここでサウルからは悔い改めの姿勢が伺えます。敵を目の前にして、その敵を愛する。 そんな人がいるだろうかと思ったとき、初めてサウル王は自分が間違っていたということに気付き、自分の罪を認めることができたのです。それは敵を愛するダビデの姿勢に出会ったこと によって、初めて罪を受け入れることができたのです。

 

これは私達も経験のあることなのではないでしょうか。私達は罪を罪と認識することができずに生きていたのです。人間は基本的には自分勝手な性質を持っていて、自分に都合の悪いことは悪い、都合の良いことは良いと勘違いしてしまっているところがあるからです。ところが私 達は私達のために十字架にかかってくださり、その命をくださったイエス様に出会いました。

 

イエス様が私達を愛してくださった。それも私達がイエス様の敵であったときにその無償の愛をくださっていたことを知ったのです。 その瞬間から、私達は罪というものを知ることができました。神様に喜ばれない歩みをしてしまうこと、これが罪であって、これを許し神の子の身分を与えるために、イエス様は私達を招いてくださったのだということです。その時私達は初めて、神様の前に自分の罪を悔い改め、神の子になることができたのです。

 

このように主を恐れるとは、まったく自分自身を放棄して神様に従うことであるということが分かります。主を恐れるということは、簡単なことではないのです。それこそダビデは、ここでサウルを殺さなければ自分が死んでいたかもしれないという状況にありました。それでもダビデは主を恐れた。だから彼は自分の命も救い、サウルの命も救ったのです。

秦野キリスト教会 Hadano Holiness Christian Church

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