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2/22 Ⅰサムエル15:1-13 「サムエルの心の痛み」

  • hadanoholiness6
  • 2月26日
  • 読了時間: 4分

 ことの発端は神様からの命令でした。神様はアマレクという民族を討つようにサウルに命令を下しました。しかしサウルはなぜかアマレクの王アガグを生け捕りにしました。なぜ生け捕りにしたかという理由は書いていませんが、恐らくアマレクを滅ぼしたことを自慢したかったのではないかと思います。また神様はアマレクの家畜もすべて滅ぼし尽くすことを命じられていましたが、サウルと兵士たちはアマレクの家畜の中で良い物があるのを見て、それを処分するのが惜しくなり、それを持って帰ってしまったのです。

 これをご覧になった神様は、サウルを王様として選んだことを「悔やむ」とおっしゃいました。これが人間が失敗した時、人間に対して抱く父なる神様の愛なのです。子どもが何かとんでもない失敗をしたとき、人の親もおそらく同じように感じるのではないでしょうか。神様もサウルが失敗をしたとき、それを任命した自分自身への責めの気持ちと、子に対する期待を失った悔やむ気持ちにされました。むしろ、神様がどんな思いでサウルを選び、サウルの存在を喜び、今日までサウルを支えて来たかを知っていたサムエルの方が、サウルに対して怒ったくらいでした。神様のサウルに対する愛を知っていたからです。

 私達クリスチャンも、時に神様の思いを知っているからこそ、この世界に対して悲しくなる瞬間を持っているのではないでしょうか。地球環境が破壊されたとき、それを創造された神様の思いが壊されたようで悲しくなりますし、戦争が起こると、愛なる神様の胸の内を想像して悲しくなります。神様との対話を通して、神様の感情も流れて来る時があります。私達は先に救われた者として、神様のこの世界に対する愛と思いを背負う者です。神様が待ち望んでいる魂が一人でも多く神様のもとに立ち返り、神様を礼拝するようになるように、私達は神様の思いを背負いながら、祈り待ち望み働きかける者でありたいと思います。

 

 さて、サウルは自分が神様の命令を守らなかったことについて、少しも良心の咎めがなかったようです。サウルは罪の内容を告げられてもなお、神様の御前に悔い改めるということができません。自分は悪くない、これは神様のためにしたのだという言い訳を続けます。そんなサウルにサムエルは言いました。「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは御羊の脂肪にまさる」。いけにえを捧げるということよりも、神様に従うことこそ、神様の喜びとされることなのです。

 神様のこのお言葉は、私達にとって何よりも嬉しいことです。私達の教会は小さな教会なので、盛大な聖歌隊もないし、賑やかな教会学校もなく、私達のささげものも小さなものかもしれません。でも神様は教会の大きさや奉仕の数ではなく、私達一人一人が神様に聞き従うことを、何よりも大きなものと見てくださるのです。私達の教会にできることは小さなことかもしれませんが、私達はその小ささに目を向けるのではなく、信仰をもって神様の御前に従順であることを重んじたいと思います。神様はそのような礼拝を心から喜んでくださるのです。

 ここで私達は一つ、疑問に思うことがあります。サウルの王国がもはや立たず、それを神様が別の人にお与えになったということは、サウルが初めて神様の前に罪を犯した13章の時点で決まっていたはずなのです。それなのに神様のその決断はこの時まで実行されることがなく、サウルの二回目の失敗の後に、ようやく神様はサウルの後任となる王様の選出をなさるのです。一体なぜ、神様は13章の時点ですぐサウルから王権を取り上げずに、この時まで裁きを先延ばしにされたのでしょうか。

 これも聖書にははっきり書いてないので、推測の域をでませんが、私は神様がサウルを惜しんでおられた時間なのではないかと思うのです。新約聖書のペテロの手紙第二には、こんな言葉があります。「主は、ある人達が遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(3:9)


​ もしかしたらサウルは悔い改めるのではないか。以前のように神様を依り頼む王様に戻ってくれるのではないかという淡い期待があったかもしれません。神様はそのように、罪人の悔い改めを忍耐されるお方なのです。そうして私達も神様に忍耐された結果、今があります。もし神様が、罪人をすぐ断罪されるお方だったら、私達は誰一人救われることはなかったのです。神様によって憐みという愛を受けて私達は、今神の子となり、神の民となり、イエス様の救いに入れられています。サウルももし、そういった神様への感謝と愛を忘れなければ、すぐに悔い改めることができたのかもしれません。私達は神様への感謝を忘れずに、神様に聞き従う民として、この週も歩ませていただきましょう。

 
 
 

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