主に愛された子ダビデ(サムⅠ16:1-13)
- hadanoholiness6
- 3月3日
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神様の命令により、サムエルは新しい王を選ぶためベツレヘムのエッサイの元へと出かけて行きます。初めにエッサイがサムエルの前を通らせたのは、エリアブという人です。このあとの17章を読みますと、彼がエッサイの長男であると書かれています。「サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思った」と書かれています。エリアブという人はおそらく背が高かった、そして人々から好かれる容姿をしていたのでしょう。サムエルはエリアブが選ばれるに違いないと思ったのです。
というのも、これには前例があったからです。サウル王が神様によって選ばれたとき、サウルのことを聖書はこう書いていました。「優れた若者で、その美しさに並ぶ者はイスラエルにおらず、民の誰よりも方から上の分だけ背が高かった」。そのサウルが選ばれた時にもサムエルは油を注いだので、その時の記憶がよみがえり、きっと神様が選ぶのはこの人だ、とサムエルは思ったのかもしれません。しかし神様ははっきりエリアブの選びを否定されました。そこでエッサイは次にアビナダブを呼び、アビナダブも選ばれなかったのでその次にシャンマをサムエルの前に連れて来ました。
17 章を読むと、アビナダブはエッサイの次男であり、シャンマが三男であると書いてありますから、エッサイは当時の文化・習慣に則って、子どもたちを年齢順に呼んだということが分かります。そうして長男から始めて七人の兄弟たちをサムエルの前に出しましたが、神様はその中の誰一人としてお選びになりませんでした。サムエルウはエッサイに確認します「あなたの息子はこれだけですか」。エッサイは答えます「末の子がまだ残っていますが。羊の番をしています」。
日本語の聖書ですと、「末の子」と訳されていますが、原語のヘブライ語を見ると、ここは「小さい small」という言葉が使われています。「小さい者が残っています」とエッサイは言うのです。おそらくまだ成人年齢に達していなかった末っ子ダビデは、小さい者、一人の礼拝者として数えられることのない存在だったので、主に犠牲をささげる場に呼ばれなかったのです。神様がこの中から王をお選びになるというときに、この小さな子どもから選ぶはずがないと、人間の選びによって除外されていた事実があったことに気付きます。
預言者サムエルは自分の過去の経験から神の選びを推察し、エッサイは息子たちの年齢から神の選びを推察していたのです。神様が選びをなさられるというときに、人間の方でそれぞれの思いによって、神の選びに偏ったイメージを持っているということに気付かされます。神様はこうおっしゃいます。「私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る」。土から造られた人間、被造物である人間は、目に映ることしか見ることができません。神様の選びは、神様のなさられることであるはずなのに、人の目は目に映ることに左右されて、神が選ぶのはこういう人であるはずだ、神はこういう者は選ぶはずがない、と勝手に判断してしまうのです。
では神様はどういう視点で選びをなさられるのでしょうか。神様はサムエルに、「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」とおっしゃっています。神様のご覧になられる「心」とは一体何のことを言っているのでしょうか。羊の番をしていた少年ダビデがサムエルの前に連れて来られたとき、聖書はこのように書いています。「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」。「目が美しい」と書かれています。目が綺麗であるということは、その心が素直できよいことを表しているのです。サウルもダビデも、二人とも神様の前に罪を犯しました。でもこの二人の違いは明確でした。サウルは言い訳をして悔い改めなかったが、ダビデは神様から罪を指摘されたとき、すぐに自分の罪を認めて悔い改めたということです。
人がみな罪人であって罪を犯す者であるというとき、素直に神様の前に出て悔い改め、神様のきよめを求めるか、自分の罪を認めずプライドゆえに好き勝手し続けるか、それが
神様の言う心の綺麗さの違いなのです。罪を犯したとしても、いつでも素直に神様の前に出て行き、赦されやすい者でいること。これが神様のお選びになったイスラエルの王の姿でした。
私たちは、神様が御子として遣わしてくださった主イエス様の代理者として、今世に遣わされています。へりくだって、神様を必要とし、神様に聞き従い、悔い改めに近い者。そういう者が主イエス様のお言葉を伝え行くことができるのです。私たちもダビデのように、神に愛された者であると、主イエス様の十字架と復活を通して約束されています。その主に愛された選ばれた者として、私たちもまたダビデのように、主の御前に素直に歩み、主の御心を行う者として一週間を過ごさせていただきましょう。

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