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3月8日「安らぎを与えるダビデ」サムエルⅠ16:14-23

  • hadanoholiness6
  • 8 時間前
  • 読了時間: 4分

皆さんは一体どういう時に心に平安を感じ、どういう時に焦りや不安を感じるでしょうか。聖書が私達に教えてくれていることは、たとえ身の回りが平和であって、衣食住には困っていなかったとしても、私達は平安を失うことがあるということです。それは父なる神様、この世界を治めておられるお方との断絶です。私達の唯一にして絶対の平安は、この世界の何かから得られる物ではありません。父なる神様からいただかなくてはならないのです。今日はサムエル記第一16章の後半から、このことに目を留めて行きたいと思います。


今日の聖書箇所はこんな一節から始まります。「主からのわざわいの霊が彼をおびえさせた」と書かれています。これを読むと私達はびっくりしてしまいます。神様は私達の父なる神様、愛なる神様ではないのか。それなのに神様からわざわいの霊が来てサウルをおびえさせているとは、どういうことだろうと。聖書にはっきり書いてあるわけではありませんが、私の解釈では、これは神様との関係が切れてしまったサウルが、平安を失ってしまった状態にあることを表しているのではないかと考えています。


そう考えている根拠が、詩編に書かれている詩です。詩編では、人が罪を犯したときの心の状態を言い表している詩があります。その一つが、詩編32編です。詩編32編3~5節で詩人は、神様に対して罪を告白せず、黙っていたときは、骨が疲れ切って一日中うめいていたと書いています。4節には、神様の御手が詩人の上にのしかかり、骨の髄まで乾ききっていたとあります。そして5節で神様に罪の告白をすると、詩人はやっと平安を取り戻すのです。


詩編51編にも、サウル王の悩みのヒントになる詩があります。詩編51編には表題がついていて、そこには「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」と書かれています。サウルの次の王様として活躍したダビデも、神様に愛され、良い活躍をした王様でした。しかしバテ・シェバという部下の奥さんを寝取ってしまったという大きな罪を犯してしまったことがあります。


その時読んだ詩で、ダビデは「あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください」と歌っているのです。まさにここでサウル王の身に起こったことが、後に罪を犯したダビデも経験したことがわかります。今日の聖書箇所にある16:14「主からの、わざわいの霊」というのは、罪を犯した者に対する良心の咎めなのです。神様の前に悔い改めない限り、この心の責めが続いてしまうのです。


なぜ私達は神様の御前に悔い改め、神様の平安をいただかなくてはならないのでしょうか。それは、私達が神様の形に作られたものであるからだと聖書は語ります。私達はこの世界を作られた神様に似た者としてつくられた存在なのです。ところが人間が罪を犯したときから、私達の内にある神様の形は歪んでしまいました。


本来の姿を失い、私達は決して埋めることのできない空洞を抱えて生きるようになったのです。神様を知らない人間は、その心の空洞を、いろいろな者で埋めようとしました。力であったり、お金であったり、美しさであったり、何か自分の心や頭で感じる、神様に近いもの、魅力的だと思うものを手に入れて、心のむなしさを埋めようとしたのです。


ところが本来は神様の形が完全体ですから、この世界にあるどんなもので心の空洞を埋めようとしても、うまるはずはありません。真の平安は、私達が造られた本来の形、神様の形を取り戻すことでしか、得ることができないのです。罪を犯し、神様に背いた状態でいることは、平安がありません。これまでずっと神様と共に歩んできたサウル王なら、それはなおさらのことだったはずなのです。


ですから、心に平安がなく、心が騒ぎたち、眠ることができなくなったサウルが真っ先にしなければならなかったことは、神様との関係を回復することだったはずでした。ところがサウルやサウルの部下たちは、気を紛らわすことのできる方法を探しました。そして竪琴を弾くために選ばれたのが、なんとくしくも前回サムエルによって油を注がれたエッサイの末っ子ダビデであったのです。


すると23節に、「サウルは元気を回復して、わざわいの霊は彼を離れ去った」とあります。ダビデが弾く竪琴の音色を聞くと、サウルは不安から解放され、平安を得ることができたようです。一体なぜダビデの竪琴の音色で、サウルは一時的にでも平安を取り戻すことができたのでしょうか。これがおそらく、信仰者ダビデによるとりなしの賛美の力ではないでしょうか。私達信仰者にも、ダビデの竪琴のような役割がこの世界において与えられていることを思います。私達が祈り、賛美することで、神様に近づくことのできる神様を知らない人達は大勢いるのです。

 
 
 

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